このページを開いてくださったということは
私について、少しでも興味を持っていただけた、
ということですね。
とても光栄です。ありがとうございます。
FBのプロフィール画面では文字制限があり
そこに載せたかったことを先に書いたら
大事なことが書ききれませんでした
なので
この場を借りて
私の自己紹介をさせていただきますね(*^^*)
Tsuko
東京都世田谷区出身
2018年現在で還暦リーチ
年齢は
個人個人の履歴に過ぎないと思っています
※ 今まではLaija(ライヤ)という名前で
ブログを書いていました
作品のブランド名も
handmade Studio Tsukot71に
変更したので
便宜上ブログもTsukoに直しました
メインのブログは「作家ライヤ」のままで
残っています
生まれた頃から家には
仏壇と神棚があり
当たり前にスピリチュアルな事柄に触れてきまし た
子供のころから感受性がかなり強く
人間を含める動物、植物以外
たとえば鉱物、海や山、土など自然のもの
人間が作ったもの(椅子やテーブル、道路・・・)
その他ありとあらゆるものに
「魂」が宿っている・・・と
理屈抜きで思ってきました
子供心に、大人をはじめ
周りの人々が何を考えているのか
なんとなくわかってしまっていました
幼稚園の先生が
私のことをどう見てるか
そういうことまでもわかっていました
「子供だと思って・・無神経だな」
先生のことをそう思っていましたが
おとなしくてとても扱いやすい子供に映っていたの で
まさか私がそんなことを考えていたとは
クラスの子供たちも先生も
決して思っていなかったと思います
感受性が強いことが関係するのか
普通怖いと感じないものにも敏感に反応して
怖いと思っていたものがあります
ひらがなの「の」という字
私の子供部屋に両親が買ってくれた
「少年少女世界の文学全集」的な題名の全集
(全部そろったら何巻あったかしりませんが、
両親 の好みで
番号がまちまちで15冊くらい
書棚に並んでいました)
背表紙に「少年少女世界の文学全集」がずらりと
15冊くらい並んでいたのをみて
「の」という字が一斉に私を見ている気がして
とても怖かったのを鮮明に覚えています
私を見ている・・・といえば
満月
どこかでなにかに見られていると思い
ふと空を見上げて
満月と「目が合った」とき
穴が開くほど見られている気がして
ゾクっとくることは今でもあります
自分では霊体質ではないと思っています
幽霊は今のところ見たことがありません
(ちょっと違うがUFOは2度ほどある)
亡くなった家族の夢も一度も見たことがありません
でも
私の母はしょっちゅう故人が
夢に出てくると言うし
私の二人の妹も
度合いは違うにしろ
なにかを感じる力はあるようです
特にすぐ下の妹は
祖父が亡くなった直後から
「そういうもの」が開花したようで
普通に足があって動いている霊を
日常茶飯事に見ているといいます
自動車の運転中にも見るので
その方々に気を取られて
事故に遭わないように
気をつけているとのこと
私にはそういう力がないと思いますが
匂い、を感じ
そして、たまに「声なき声」は聞こえます
力んで耳を澄まして聞こうとしても聞こえませんが
予期しない時に頭の中だか
耳の奥だかはっきりしないけれど
大抵は重々しく落ち着いた
男性の声が聞こえます
また
私以外に誰もいないのに
突然「匂い袋」の香りがする時もあり
その場合は「高貴な姫」が
私についている、と
ある宮司さん(故人)に
言われたことがあります
(もっと厳密に言うと、
御所車に乗った十二単を着た姫)
そうかと思えば
道を歩いていて、突然、
沼のような苔のような
生臭いにおいを感じることもあります
それをある人に言うと
「この辺は昔湿地帯だった」と言われました
だから何なのだ?という話ではありますが
今のところ
匂いがわかるということについて
役立つことは・・・ありません(笑)
今でも興味がないので
書かなくてもよいかもしれませんが
私の祖母はある種の祈祷師をしていました
(宗教とはまた違うジャンルだと思います)
その術を使って、
ご近所さんたちの人助けをしていました
祈祷が終わった直後に
相手からお礼の挨拶に来られることが
しばしばあったので
即効性があることは間近で見ていました
家族の中で祖母から
伝授されたのは私だけです
祖母が存命の頃
一度だけ私がその術を
使ったことがあります
効力はあったと記憶していますが
伝授されても
今でも興味がありませんので
やるつもりもないです
ある呪術の書籍を
当時の知り合いから紹介され
それをアマゾンで見つけて購入しました
相当古い本なので
今は書店では手に入らないからです
本に載っているとおりに
半紙に墨で書いて護符を作りましたが
効力があったので怖くなりました
その書籍はしばらく持っていましたが
持っているのも怖くなったので
塩で清めて買取業者に
買い取ってもらいました
祖母の祈祷もそうですが
おどろおどろしいのは苦手です
カードリーディングについては
9年位前からやっていました
それより前に
ルーンストーンで
自分自身のリーディングをしていましたが
その後エンジェルカードの存在を知り
ルーンストーンより
私には理解しやすいと思いました
タロットカードには
興味がわきませんでしたが
エンジェルカードには
惹かれるものがありました
ドリーン・バーチュー博士の書籍を
たくさん読んでいるうちに
カードを買って
リーディングがしたいと思うようになり
当時の友人・同僚にセッションしていました
カードを使う前から
もっと厳密に言えば、子供のころから
私が何も言わなくても
友人たちから打ち明け話をされることが多く
自然と相談に乗る立場になっていました
性格なのか、私は
その人にわかるように話すよう努め
じっとを聞き、私なりの提案をしていました
それが今に至るまで
なんとなく続いていますが
そこにカードが入ると
ますます私の提案、アドバイスが
相談者の方の役に
立っているのだということがよくわかり
相談者の方がホッとして
納得して、理解して
笑顔になってくれるのを見るのが
すごく嬉しくてしかたがありません
私は
人が困っているのをみて
自分にできることがあればサポートし
それにより喜ばれる
ということに喜びを感じる・・・
ということがわかりました
カードリーディングは
カードの意味を解説書で読みながら
私なりの解釈を入れて翻訳する
という方法をとっています
誰かについて学んだわけではなく
私なりのやり方ですが
やり始めた頃から
ひとさまの役に立った
という手応えを感じています
諸事情があり5年間封印してきましたが
2018年11月にふと
「再開すべき」と思ったので
手慣らしに3名様に
モニターになっていただきました
皆様には喜んでいただき
その感想に励まさせ
勇気付けられました
カードを通した私の言葉が
道に迷う方々の道標になれば
よいと思ってはおりましたが
それは自分の「生業」ではないと
感じています
自分がやりたいこと、考えるだけで
ワクワクすることはなんだろう・・・と
思ったとき
自分が好きなことをして
それが他人様にもよろこばれることだ
と思いました
その方法が
作品を手作りして販売することだったり
カードリーディングをすることだったり
まだ他にもあるかもしれないけれど
とにかく、自分だけ好きなことをして
楽しむのではなく
「好きなことをしたら
他人様もよろこんでくれる」
ということがワクワクします。
2019年4月に
オンラインサロンも開きました。
みんなでたのしいサロンを作りたくてはじめました。
断捨離がなかなかできないでいます。
ついつい、思いいれがあるものばかりで
捨てたあとに後悔して、
悲しく寂しくなるのが怖いのです多分。
でも、部屋をサッパリさせたい。
最近ずっとそればかり考えています。
そうしているときに、
ふわっと。こんな声なき声が。
被災した方々は、宝物を廃棄物、瓦礫と呼ばれ
なおかつ、それが
戻ってこない可能性が高いのです。
それを考えたら、できるでしょ。
・・・と。
2012/5/25 10:00 に投稿していました。
私も色々な悩みとか困難な事が多少あるのだけど
私以上に大変だなあと 思う人々の事を考えていた。
自分の頭のハエも追えないのに
何とか手助け出来ないかなと考えていた。
その時突然
助けてと呼ばれないと 何にも出来ない という
声なき声が閃いた。
えっっ?? と思ったのだけど
次の瞬間
そうか。
私の尺度で 大変とかご苦労されてるとか
思うだけで
ご本人達は それほどでもないと
思っているかもしれない。
余計なお節介をしてはダメなんだ と、
本当にスカッと 理解できた。
天使関係の本を読んでいても
いつも助けたいけど
呼ばれないと 手が出せないと言っていて
「何でも出来る」ならやってよ!!
呼ばなくてもできるでしょ・・・って
苛立ちを覚える事も有った。
でも、なるほど。
今なら理解できる。
助けて欲しい事があれば
助けてと言おう!
ニュースで、4人に1人は高齢だと言っていました。
今まで普通に、「深刻な問題」だと思ってきた、
と言うか、思わされてきたけれど、
どこからともなく、
「それほど日本は元気だという事だ。」
と言う声を聞きました。
確かに!元気なのは良い事だと思うけど、
そんな元気な人々の有給の活動の場があれば、
もっと日本は元気になるだろうなと思いますね。
それについては、
今のところ何にも声は聞こえないけど…
このことについて、
どう思うのか、教えて~!!
台風一過。
道は大荒れの残骸で大変でしたね。
名前がわからない草木が
沢山茂っている空き地も
ジャングルのようでした。
背が高かったり低かったり
いろんな種類の緑色があったり。
それらがお互いに倒れ掛かっていました。
まっすぐに立っている時には
見えなかったはずの
草の中ほどについている
青っぽい沢山の実も見えました。
ぶどうみたいな色をしています。
歩きながら横目でそれを見て
「ジューシーな色しているけれど
アレは人間が食べたら毒なんだろうな」と
なんとなく思いました。
そうしたら
耳の奥だか
あたまの上だかで
「何でも人間が安全に食べられたら
他のみんなの食べるものが
なくなっちゃうよ。」
と言われました。
おっしゃるとおり。
ごもっともです。
なるほどね。
だから人間にとって毒になるものも
小動物とか小鳥には
おいしいえさになったりするのかも。
みんなの世界なんだから
人間が、何でもかんでも我先にと
ほかのみんなから
横取りしちゃまずいでしょ。
当たり前のことが、
今まで気づかずに
突然こういう風に
気づくことが多々あります。
塾の仕事に心身ともにかなり参っています。
はい。寝る時間が少なくなり、家事なんて一切できず
翌日の昼の仕事にかなりひびいて、もうぼろぼろ状態なんです。
教えることは楽しいし、学ぶことが楽しいです。
何がつらいかというと、生徒一人一人の教務内容を個々の生徒のノートに記す作業がつらいんです。
どうしても書けない。
ここの単元を指導しようと準備していたのに、当の本人がまったくやる気がなくて
遊んでしまって、時間ばかりが過ぎていき、
お金を貰っている以上、そんなことは理由にならないから、なんとしても指導しようとする。
やりたくない、やってみたら?
やだ、やる気ゼロ、そんなこと言わないで、今日はここまでにするから
めどは立てたものの、それだけでは教務にならないことがあります。
でも不可抗力、と呼んだら甘いでしょうか、どんなに工夫しても、
やる気の無い当人に、限られた時間内に予定単元を終わらせることが実に難儀なんです。
たいしたことができなくても、後で保護者に聞かれた場合、
申し開きができるような事をしておく必要があります。
ただし、絶対にしてはいけないのは、体裁を作って、教えても居ないことを教えたと書くこと。
虚偽になります。
そんなことは200%分かっているし、言われなくても虚偽なんてするつもりは毛頭ありません。
仕方が無いから、本当にやろうとしたこと、そしてできなかったこと、その後どうしたかを
克明に書くしかない、それ以外には白紙で提出するしか道はないんです。
こういう生徒を教務した後には、「また塾長から訂正!とか言ってノートが差し戻しになるんだろうな」と
ひやひやドキドキしながら、楽しくない気分でノートを書きます。
毎日毎日、このノートとの戦いで、私は頭がおかしくなりそうなくらいぼろぼろなんです。
いっそのこと、辞めたい、私には向いていないんだ、近いというだけの理由で応募した私が
あまりに浅はかでバカで情けない。身の程知らずだった・・・
いつも1人残務をしているときに後悔の念が頭をよぎります。
今までは、深みにはまらないうちに、無理だと思った職種は、スパッと辞めて
すぐに自分に合いそうなものを見つけていました。
飽きっぽいというのとは違い、あくまでもサイドワークなので
正社員じゃないし深く追求したりせずに、パートの役割を果たせれば良いから
時給以前に効率よく働ける仕事に就くのが賢明、だと思っていたからです。
もちろん、パートとはいえ、
請け負った仕事は、最後まで責任を持って終わらせるのは言うまでもありません。
ただ、自分にとっては深入りする仕事ではないので、という頭があるのです。
それなのに、こんなにつらい思いをしているにも関わらず
「いやいや、なんの。大丈夫だよ」という声が毎回心に響くのです。
なんで?こんなにつらいのに。もう寝不足で栄養失調で(疲れて食べたくないから)
母より老けたと母に言われてショックなのに
この仕事のおかげで、創作が押せ押せになっているのに
それなのに、なにが一体大丈夫なのよ!!!
あ~だれか、腕の良いサイキックな人が私を見て
「この仕事続けていたら大変だから辞めなさい」って言ってくれないかなあ、なんてことまで
考えてしまうこの頃なのに、それがなんで「いやいや、大丈夫」なのよ~~!!!
なんで?という私の問いには、一向に答えてくれません。
思わず、私が1人で一人二役の芝居でも無意識にしているのだろうかとさえ疑ってしまいます。
でも、ほんとに疲れているので、自分を叱咤激励して「頑張ろう!」なんて
まったく思っていないのだから
私が無意識でも「大丈夫だよ」なんて言うはずが無いんです。
そして、もっと不可思議なことは、
昼までの仕事が終わり、「あ~今度は塾か・・・」とどんよりしながら家までの道を歩いているけれど
いざ、塾の戸を開けると、何だか知らないけれど、やる気が出てくるんです。
でも、また残務の時間になると、
どんよりしながら消しゴムのカスばかりがものすごい量になって
同じ生徒のノートの同じページばかりを書いては消し、書いては消しの繰り返し。
そしてまた例のごとく「あ~~もうやだよ~~~!」
それでも笑いを含んだ、あまりにも悠長な声で
「いやいや、まだまだ平気」と言われてみてください、
え~うそでしょ~~!?と思う反面、
あれ?もしや、そのうちにコツをつかんで、慣れて、
もっと効率よく書ける様になって、後輩にコツを教えられるようになったりして?
なんて、ほんの一瞬の隙に考えたりしちゃうものです。
私は誰に動かされているんだろう。
本当にやりたい仕事関連のバイトなら効率よいだろうに
まったく違う性質の仕事ばかりをやっている、これにも意味が絶対にあるんだろうな
と考えざるを得ないんですね。
そのうちに良い報告が書けることを自分でも祈っています。
昼間の仕事のブレイク時間に、
休憩室に飾ってあった何鉢かの胡蝶蘭を眺めていました。
下に向かって、弧を描いて垂れ下がって咲いている胡蝶蘭。
何かお祝い事のあったときに、最高のプレゼントとして贈る花の代名詞。
花弁はみんなこっちをまっすぐに向いて、縦に並んで咲いている。
私は、花が大好きだけれど、なぜかわからないけれども、
胡蝶蘭は、ちょっと怖くて苦手です。
なんだか不気味な花の配列。いかにも人工的な、造った感じのみたくれ。
全員がこっちを向いている、その不自然なカタチ。
キレイだけれど怖い。そんな花です。
ずっと見ながら
「なんでこんなにきちんと縦に整列して咲いているんだろう」と思っていたら
「きれいに並んで咲いていられるのは、支えがあるからだ」
という声が、心の中にひびきました。
単純明快の、実際に芯棒があるからだ、という理由以外に
何かもっと深い意味がありそうです。
いろんなことに通じる意味が。
タイトルの言葉を「誰か様」から言われたんじゃないです
ついでに言うと、信じようと信じまいと、そんなことは個人の自由で知ったことではないんですね。
どちらにしても「真実は一つだけ」で、その事実があるだけで、それはゆるぎないことだから
疑われてブレたり揺れたりするものではないですよね。
(・・・で「誰が」ブレたり、揺れたり?主語はナンだろうか?書いていてよくわかりません)
今日は朝からすごく忙しく、せっかくの休みなんだけれど
休みだからこそ「しなくてはならない」「したい」ことがてんこ盛りで
全てをこなすと、結局疲れちゃう。でも他にする時間がないから仕方が無い。
今日は、銀座でビーズレッスンのアシスタントをした後、そのまま渋谷の東急ハンズで
金具を買ってから帰宅することになっていました。
ブローチの針が折れてしまったのを直すように頼まれていたのです。
ずいぶん前に預かっていたのだけれど、今日しか出かけるときがなかったので待たせていました。
ブローチの本体は、ケースに入れて、預かったままです。
一応、ブローチも持って行って、金具のサイズに合わせようと思っていましたが
そんなことはすっかりと頭の中から無くなって忘れていました。
昨夜、今日のしたくをしている最中、ブローチが入っているプラスチックのケースの蓋が
ポトリと落ちました。
確かにキッチリとは閉めていなかったとは思いますが、
落ちるような「本体に載せている程度」ではないし、浮いてもいませんでした。
しかも、地震もなければ、外を大型トラックでも走ったときの振動すらまったくない静寂な夜でした。
そこにもってきて、何の振動で蓋が落ちたのだろうか。
「あら、落ちた」と言ったのと全く同時に
「あ!明日はハンズへ行かなくちゃ!」と思ったのです。
私の頭の中から、ハンズへ寄ってから帰宅する、というコースがなくなっていたのを
きっと誰かが知って、私に合図をしてくれたとしか思えないのです。
正確に言えば、その時には脳裏からは離れていたかもしれないけれど、
行くということは前から計画をしていたので、忘れてはいませんでしたが、
念押しをされたような気持ちだったのです。
今考えると、落ち方だって、あまりにも不自然です。
落ちるタイミングもおかしいし、そもそも落ちる要因が全くわかりません。
さも、「あ、落として気づかせておかなくちゃ。忘れるところだった」と、
あわててミッションを完了させた、と言うような感じです。
偶然にしては出来すぎています。
今回は、日常的なささやかな事、「忘れ物をしないように」という事を
モノで合図をして教えてくれたのだと、私は確信しています。
今日渋谷を歩いていたら、「Superfly」の「タマシイレボリューション」が流れていました。
ものすごくモチベーションが上がるから、大好きな歌です。それなのにそれなのに
歳のせいかアーティスト名をド忘れしてしまいました。
え~と、誰だっけ。。。とずっと考えながら駅の方を歩いていったら、
スクランブル交差点の向こう、山手線に繋がる入り口の上の壁に
「Superfly」の大きなポスターが貼ってありました。
すげえタイミング!って感激しちゃいました。
これをただの偶然と解釈するのか、シンクロと解釈するのか
真実は一つだけなんだけれど、解釈の仕方はあなた次第です。
今日言われたんじゃないです
またまた、やっちまいました
私の携帯のメモ記録によると、去年の4月22日 0:02に言われたのを
忘れないうちにそばにあった携帯電話のメモ機能に打っていたものでした。
たまたま、携帯電話の中身の整理をしていた今、見つけました(汗)
過ぎてしまったことを今更書き足すのもちょっとな~とも思ったけれど
私の中では、すごく大事なことのような気がして、
「覚書」のつもりで書いておこうと思ったのです。