父は無類の新し物好きだった。
私は今生まれた地域、地元に住んでいるが、この家を建て直す前の二階建ての家は
この地域で一番先に二階建てにした。
その前の平屋の時には、この辺ではめずらしい青い瓦の家で
出前を取るときには「青い屋根の○○ですが」と電話で言えば、すぐに分かるくらいだった。
最初に電話を引いたのも家。カラーテレビにしたのも家が一番早かった。
ステレオも家だったし、水冷式の子どもの背丈よりも高いクーラーも家が一番早かった。
自慢半分だけれど、あとの半分は、「いつもすぐに手を出すから、後から後から良いものが出てくるのに・・・」と
家族に言われてしまうのだった。
服飾関係とか色合いのセンスは、はっきりいって無かったと思う。
母がセンスが良い人なので、いつもコーディネートは母だった。
しかし。今日、母が菩提寺のお施餓鬼に行った際、お寺の大住職とその娘さん(と言ってももうかなり年配)から
父の昔話を聞いて帰ってきて、私に話したが、
それを聞いて、母と私で、あらためて「先見の明があったんだね、お父さん」と、感心したことがあった。
33年くらい前、父の両親(父が子どもの頃に両親とも病気で亡くしている)の33回忌の法要をしたときの事だった。
当然私はそんなこと知らなかったが、母は記憶に残っていた。
記念品をお寺に贈るという時に、父は、「椅子はどうですか」と言ったらしい。
法事の席で、正座をするのは大変だから、椅子に腰掛けられたらよいだろう、ということでそう申し出たとの事だった。
その時の住職は(今の大住職)、当時まだ椅子に座って読経を聞くことなんてどこもやっていなかったから
それはちょっと遠慮する、そのかわり、二月堂(細長い机)をもしよければ頂きたい・・
と言ったそうだ。
父は、何度も「椅子が良いと思うのですが・・・」と言ったが、「住職さんが二月堂が良いとおっしゃるなら、そうしましょう」
という事で、二月堂を贈ることになった。
さて、現在。 たいていのお寺では椅子を使う事になってきた。
あの時の父の申し出を断らなかったら、と当時を回想して母に話してくれたとの事だ。
「先見の明があったんですね」と言われたそうだ。
その後も、父をはじめとして、うちの家族の名前で、お寺の瓦を寄付したりしたらしい。
先日葬儀の時にお世話になった若住職(といってももう還暦)に、葬儀一式にかかる費用を聞いたら、
びっくりするほど安かった(といっても、もちろん高いけれど。)
何度聞いても、その値段以上は結構ですとのことだった。 それは多分、父が健在だった頃、お寺に色々尽くしたから
そのお礼を兼ねているのではないか、と母が言った。
そして、戒名をつけたときも、「実は以前から言われていたんです」と若住職が言った。
生前より、自分が死んだときの戒名は、「院号は要りません。」と言っていたそうだ。
院号をつけると、残された家族が色んな付き合い(お寺関係)で費用も掛かるし大変だから、私には院号をつけないで下さい、と
かねてから言っていたそうだ。
父は一人っ子のお坊ちゃま育ちで、母はしっかり者の3人姉妹の長女、母よりも一回り年上の父だけれども
母と結婚したときにはすでに両親が居なかったから、母を「妻であり母親である」という風に見ていた、と
父に直接私は聞いた事がある。
父の一人っ子特有の性質(と、決め付けてはいけないが)に、母はよくたしなめていたし
三人娘たちには良く「お父さん、やめてよ!」と怒られたりしていた父。
一人でも息子が居たら全然違っただろうと思うと、かわいそうな気が今頃してきた。
そんな父なのに、こんなに段取り良く、また他人様に尊敬されるような生き方をしてきたのだと思うと誇らしい。
父は「青」が好きだった。何でも「青」「青」と言っていた。
私が中学入学の時、腕時計を買ってくれることになったが、文字盤の色は青がいいんじゃないかと聞いてきた。
私は全く青なんて考えてなかったから、ちょっと渋い顔をしたのを覚えている。
青なんて暗いじゃん。地味だし。なんて言った気がする。
でも、母に言わせると「お父さんは、あまり色んな色を知らなかったのよ。だから何でも青って言っていたのね」とのこと。
父の祭壇は、すぐ下の妹は、「白木が良い」と言ったけれど、私と母は、「あまりおどろおどろしているのが嫌だから
花だけで飾りたい」と言って、全部花にしてもらった。ホントに恥ずかしくない立派な祭壇だった。
父が好きだった「青い」花をたくさん取り入れてとってもステキな祭壇だった。
コメント