出勤しようと、まさにバッグを抱えて玄関へ出るところだった。
たまたま妹も用事で出勤前にマイカーで家に来ていて、これから仕事関係で役所へ行こうとしていた時だった。
病院から電話があり、容態が変わったので、すぐに来てくれと。
私も母も、妹のマイカーで行った。
父は、酸素呼吸器をつけていた。いつもは、濃度のダイヤルが5だったのに、今回は10だった。
輸血もすると言っていて、準備をしていた。
輸血は400すると言っていた。
血液がたりないから酸素が足りないと思った。
呼ぶと反応がある。 表情もそれほど苦しそうではない。
担当医が入ってきた。別段緊急という感じではなかった。ただ、目は離せないと言った。
自分はこれから1件オペが入っているから、これから行くと言っていたくらいだから、まさかそんな危険とは思っていなかった。
妹が、今のうちに役所で用事を済ませると行っていたから、わたしも一旦帰宅してやることをやろうと思ったので
マイカーに便乗し、私を自宅へ下ろしてから妹は役所へ行った。
ついてものの10分くらいしたら、なきじゃくっている母から電話が。
何を言っているか全然わからない。言葉になっていない。「早く・・・来て・・すぐ来て・・」その繰り返しだった。
私は、バッグを抱えて、タクシーをつかまえた。妹に連絡した。妹はまだ役所の仕事が途中だから、
ばらばらで行こうという事になった。
246はとても混んでいた。いや、こちらの気持ちが急いていたから、いつも以上に混んでいるように感じただけかもしれない。
タクシーの中で、2回も、母からの「まだ?」「いま、どこ?」コールを取った。
待って、今乗っているから、落ち着いて!と言ったが、「落ち着けない・・・心臓が止まっている・・」と。
なんで?だってついさっきは・・・ その気持ちばかりがぐるぐる回って早く着いてほしいと思っていた。
着いたら、担当医ではない女性の医者が、ものすごくおちついて、数名の看護師さんと一緒に処置していた。
ものすごく事務的に「延命はしない、と聞いていましたので」 「何回酸素を送り込んでも、反応がないので」と言った。
「確かに延命はしないでくださいといいました。でも延命をしていたら持ちこたえたのですか」と思わず聞いた。
「でも、植物状態になります」と首を横にふりながら女医は言った。
母の泣き叫ぶ声がいつまでも響いていた。
なんで、なんでもっと頑張ってくれなかったの、お父さん!!なんでなんで!
どうしてこんな早く逝っちゃうのおおおおおお!!!
もうちょっとの辛抱だったのに、もうちょっとで帰れたのにいいいいい!!!
お父さん、お父さん、目を開けてえええ!!!!なんでなんで!!!
私は黙って、まだ温かい父の手をずっと握っていた。顔を撫でた。
くびの後ろを触ったら、まだとっても温かかった。
まだ温かいのに、ここがやがてじわじわと冷たくなるなんて、絶対に信じられなかった。
みるみる顔はひんやりしてきた。
でも表情はすごく穏やかだった。
母がつきっきりでいながら、ほんの一瞬の間に、すうっと逝ってしまったのだ。
こちらに居るのと、あっちに逝くのとの境目が全然わからなかったとのことだった。
同居していた祖父も祖母も、自宅で看取ったが、あっちに逝くときには「徴」があった。
ククっと喉を小さく鳴らしたのだった。でも父はすうっと逝った。
だから全然気付かなかった。酸素を送る水の容器の中の泡が突然消えたので母がなんでと思って
ベルを押したのだった。その一瞬前でさえ、そんな緊急だと思っていなかった。
オペを終えた担当医が、「こんなことになってしまってどうもすみません」とあやまった。事務的だった。
いや、こちらが感情移入しすぎで「事務的」に感じたのだろう。そう思いたい。
でも、看護師さんたちはみんなとっても親切で良かった。
すぐにすべての手続きがものすごく段取り良く行われた。
受付で「死亡診断書」を貰い、その間に自宅待機していたRに電話し父の死を告げ、すぐに来るように言い、
学校にいるちびKに電話し、彼は自転車で飛ばしてきた、
死亡診断書を母に渡し、私とRはタクシーで帰り、Rは気分が悪くなったので途中で一人で降りた。
ちびちびKは、いつもなら絶対にしないのに、ちびRの学校の近くまで自転車で迎えに行った。
突然目の前にちびちびKが居たのを見つけたちびRは、一体どうしたのと聞いた。
後ろに乗ったちびRは泣きじゃくって、手がずっと震えていた。
タクシーの私は、父の遺留品をビニール袋の大きいものに詰めて、
サンタクロースの袋みたいにしてそのまま持って帰った。
道が混んでいたので、自宅から少し離れたところで下りて、袋を持って家までの道のりを歩いた。
途中で近所の人に呼び止められたらどうしようと思っていた。
葬儀は積み立てをしていた互助会に頼んであり、父の遺体と一緒にもうすぐ自宅に到着することになっていた。
雨が降りそうだったので洗濯物を室内に干していたので、まずそれを別の場所へ移そう、そして次は。。と
ひとつひとつの作業を頭でよく確認しながら行った。
そうでもしないと、自分が現在やっている行動が自分で全然わからなかったからだ。
父がいつもかぶっていた帽子が目に入った。
今まで我慢していたものが突然爆発した。家の中は私一人だ。
こみ上げていたものが一気に出てしまった。大きな声をあげて泣きながら、本当にえーんえーんと泣きながら
でも、私は手だけは動かしていた。
ふとカレンダーを見た。 父の日はこれからだった。 それを見たとたん、また泣いた。
葬儀屋さん、親戚が集まった。 家に住んでいる若い男子メンバーたちに障子貼りやガラス拭きを頼んだ。
マタムネをペットホテルに預けた。ペット屋さんが迎えに来る夜8時過ぎまで、マタムネは鳴き声ひとつ出さなかった。
じっと、本当にしんみりとした顔で、頭をハウスの縁に載せてじっとしていた。
葬儀屋さんとの打ち合わせが延々と行われた。昼ごはんよりも夕食に近い時間になった。
母も聞いてはいたが、かなりパニックを起こしていたので、私たち三姉妹がすべて取り仕切った。
途中おなかが空いたので、コンビニでみんなが食べられる分だけのおにぎりとか弁当とかを
ちびK・ちびちびKに買いに行かせた。
叔母たちにもおにぎりを勧めた。叔母たちは、久しぶりに対面した私がまた痩せたのを心配していて
「あなたこそ、これから大変なんだから、今のうちに食べちゃいなさい」と言った。痩せてるのはずっと前からで
私は他人から 「また痩せた?」と言われるのが何よりつらい。
私は、昼に会社で食べようと思っていた手弁当の包みを広げて、もそもそと黙って食べた。
お寺の檀家さんとの電話やりとり。斎場のスケジュール。そして今のこの季節。
全部を満足させるのが、逝った翌日に通夜・翌々日に告別式という段取りだった。
遺体を見ている時間があまりに短かいと思った。
さっきまで酸素呼吸器をしていたのに、家に戻ってきた父はすでに全部冷たかった。
弔問客が来るたびに、ようやく涙がおさまった母が、再び泣く。 の繰り返しだった。
父が気に入っていたものを気付くだけすべて写真に撮り、プリントアウトした。
棺に入れるつもりだった。 「のらくろ全集(布張り)」「徳川家康コミック」「メガネ」「帽子」「ラジオ」「髭剃り」「剣道着を着ている
キューピー人形」「表札」「家の外観」「父の財布」「一万円札を沢山」「父の書斎」
これらをひとつひとつ写真におさめてプリントアウトした。
それぞれの固有の周波数が燃やされたことによってあちらの世界に父と一緒に運ばれたら
父はあちらでさまよう事もなく、なじんだ家に住み、お金にも困らず、好きな書籍を読んだりラジオだって好きな時に
聞くことが出来る。
迷信だろうと、非科学的・非現実的だろうと、そんなことどうだっていい。
「こうすればきっとこうだろう」的な事を、思いつくかぎりやりたい、と思っただけだ。
生きている動物・人間の写真は、いくら父が好きだったとしても「引かれる」という言い伝えがあるから止めておいた。
父は母に「私がいなくなったらあなた、およめに行きなさい」と言ったそうだ。
ばかじゃないの、何で私みたいにおばあちゃんになったのがおよめに行くのよ、誰も貰ってくれないわよ、と言うと
「そんなことない。」「およめに行かないと心配だ」と言ったそうだ。
なに言ってるのよ。お父さんのおよめさんなんだから、他の人のおよめさんになんてなれるわけないでしょ、と言うと
「もう私は、十分。十分やってもらったから」と言ったそうだ。さびしがりやで、母が居ないと何も始まらない。
母が居ないと何もできない。 母は友達とのたった何時間かのティータイムでさえ、父の念に束縛されていたのだった。
すごくそれがわずらわしく、また母は、心無い友達に良く「オタクはご主人と仲良しだから」とからかわれて
いつも嫌な思いをしていた。
それほど母が居ないとうるさいくらいに騒ぐあの父が「もう私は十分やってもらったから」なんて言うとは。
そんな言葉、100人中99人が言ったとしても、父は決して言わないと確信できるのに。そんな父がそんな事を。
すでに死期を分かっていたのかもしれないと思わずに居られない。
父は沢山病気をしたのに、83歳という高齢だったのに、荼毘の後の骨は、一番大きな骨壷にしないと入りきれないほど
沢山あって、それもとってもしっかりしていてみんなびっくりしていた。
喉仏も、きちんと正座して合唱している仏様というのが誰が見てもはっきりとわかるほどしっかりしていて大きかった。
どこも欠けているところが無かったから、本当に袈裟をかけている仏様という形にしっかりと見えた。
こんなしっかりと形に残っているのは珍しいと言われた。
骨壷に骨をおさめるとき、「さわっていいですか」と断ってから、Rが骨壷を押さえた。
そしてフタを締める前にまた、「さわっていいですか」と了承を得てから、じかに骨に触った。
他の大勢来てくださった方々だって、骨の説明を聞きたかっただろうに、Rが台のところに陣取って動かなかったから
邪魔になって、声が通らず聞こえない人も居たらしく、後で聞くところによるとあまりよく思われなかった。
そういう社交的な場所で、礼儀知らずだと。
ひとつを悪く言われると、その者の他の態度も悪く見られがちだ。
もともと誤解をされやすいRだったが、周りを考えない行動、普通はじかに骨なんてさわるものじゃないこと等で
陰で言われていたみたいだった。でも私はあえて、体裁を気にするつもりの注意がRにできなかった。
父はRが大好きだった。Rも父が大好きだった。
でも、父はずっとRが好きだったのに、Rはある一定の年頃になったら、父を疎ましく思った時期があった。
Rは、父に面と向かって言えなかった事を、逝った後、やっと「1対1」で言えたのだった。
骨になる前も、棺の中に献花するときも、最後までそこを離れず、顔を近づけ、父の頭を撫でながら、何かを言っていた。
他のメンバーは、誰かに促されなかったら、誰も父を自発的に触らなかった。
後で聞いたが、「葬儀が終わるまでは俺は絶対に泣かないと約束した」そうだ。
ちびR・ちびちびR・Aの女子たちは全員しゃくりあげていた。
ちびちびRは、あまりにショックであまりに泣きすぎて、逝った当日の夜は、高熱が出てしまった。
でも実際には「1対1」なんかではなく、大勢周りに居たから、Rの自分勝手なわがままな行為と映った。
後でRに聞いてみたら、「それは悪かった。自分の事だけしか見えなかったから、それは悪いと思う」としんみりと言っていた。
わかるさ。昔から誤解されやすい人間だったけれど、誰よりも熱くて、内面の礼儀正しさはピカ一だと私は思っているさ。
他のメンバーみたいに上手く立ち回ることが下手で「正直者は馬鹿を見る」をそのまま体現しているからね。
父にはそれが分かっていたと思う。 私が一番好きで尊敬している、母方の母のいとこ(祖母の弟の娘)が
「今時いないわよ、あんなすばらしい男の子は」とRを認めてくれていたのが父にも通じていると思う。
世間体が悪く、表面的に誰に非難されようとも、すでに魂になった父には、Rの本意が手に取るように分かると思う。
絶対に嬉しかったに決まっている。
人は不幸の中に居るときにこそ、他人様の「人となり」を知る事ができる。
都合の良い時とか楽しい時には全然気付かなかったことでも、不幸になると良く見える。
母は、弔問に来てくれると思ってもみなかった知り合いが来てくれただけで感激して泣いていた。
私も、私の父の事を知らなくても、私と友達だからという理由で弔問に来てくれた友人たちにすごく感激した。
こういう時にしか会うことができない人々と会うチャンスも、父は作ってくれた。
父は家に早く帰りたかった。帰って家でやりたいことが一杯あった。
鼻からの管が苦しかったから、胃ロウをとっても楽しみにしていた。それなのにその胃ロウが良くなかった。
その後からの容態が良くなかったからだ。偶然で片付ければそれまでだけれど。こちらはシロウトだから。
胃ロウをつけたのに、全然役に立てずに、家にも帰れず逝った。
でも、自宅介護の経験を家族はしなかった。通夜・告別式とも天候は暑すぎず、寒くなく、雨も降らず良かった。
最後まで父は、家族とその周りを気にしていたのだと思う。
お父さん、今年の父の日は何もできなかった。ごめんね。そして今まで本当にありがとう。
これからは、腰も痛くないし、目もしっかり見えているし、どこも悪いところも無く、そちらで楽しく暮らせるね。